大学を卒業と同時に闘病中だった母が亡くなりました。いまだかつて経験したことのないつらい出来事でした。

大学を卒業後は、母校の歯科補綴学第一講座というところに入局しました。ここは、入れ歯を専門とするところで、数ある講座の中でも厳しいといわれていたところです。なぜ、選んだんでしょう?義歯、かみ合わせの勉強がしたかったこと。病棟実習でその講座の先生方には非常にお世話になり、卒後の勉強をするには適当であろうと思ったこと。それと、やはりものを作ることが好きだからでしょうか。実は父もこの講座に籍を置いていたことがありました。北大歯学部創設期のことです。
僕の歯科医としての基礎はここでつくられました。医局には8年間在籍しました。この間、臨床・研究・学生教育に従事しました。診療は大学の附属病院だけでなく、多数の関連病院でも行っていました。さまざまな歯科医師、多数の患者さまに会うことができました。室蘭日鋼記念病院には補綴専門医として半年間勤め、全身疾患を持つ方の歯科診療について多く学ぶことができました。

小さい頃から、絵を描くのが好きでした(父も絵を描く趣味を持っていましたので、なんらかの影響があったのかもしれません)。ですから、紙と色鉛筆、クレヨンは常に手元にあったような気がします。そのせいか、小学校に入ってからは、漫画をよく描いていました。クラスにすごく上手な友達がいて、一緒に描いていましたね。歯科医として“絵心”というものは結構大切なので、良かったなと思っています。

中学では、工芸部に所属し、棚やら机を造っていました。テニス部の練習を窓の外に見ながら、吹奏楽部の練習を調に紙ヤスリを掛けていたイメージです。僕はモノをつくるのが好きみたいですね。この時の経験も実は、現在役に立っています。何かというと、子供のおもちゃ作りです。おままごとのキッチンと冷蔵庫を作りました。我ながら自信作です。

高校は、市内でも有数の進学校。入学初めの実力テストでは、中の上ぐらいだった成績も、あれよあれよという間に急降下。でも自由な校風で楽しく過ごしました。3年生のときの球技大会でクラスお揃いのTシャツをつくりました(その時のイラストは僕が書かせていただきました)。そのときのコピーが“笑う門には 富久来る”(担任の先生の名前と福をかけています)。この言葉は僕の一つの大切なキーワードになっています。ちなみにこのコピーを考えた友達は今や大手広告代理店に勤めています。さすがですねぇ〜。

父も歯科医、母も歯科医、母方の祖父も歯科医という環境は少なからず(というか非常に大きく)、僕に影響を与えました。大学は歯学部を受験しました。父はあまり賛成していませんでしたが、なかば強引に願書を送りました。結果は・・・
ご多分にもれず、落ちました。浪人です。多くの友人達も仲良く(?)落ちてしまったこと、実力的にも合格は難しいだろうと思っていたことなどから、さほど落ち込むことはありませんでした。
オリエント歯科は場所柄、近くの予備校生の方がいらっしゃることも多いんです。そんな時は、模擬試験などの日程を聞いたりして、なるべくその期間はテストに集中できるように治療計画を考えたりしています。また、治療終了後は「春の試験、頑張ってね」と声をかけます。雪が解け、暖かくなってから、大学生として、また来てくれたりした時は、本当にうれしくなりますね。おめでとう、ってね。
僕の浪人時代は、たくさん遊んだし、それなりに勉強して、非常に充実していたなと思っています。

周りの心配をかけながら、一浪で北大に無事入学しました。父も母も喜んでくれました。母は泣いていましたね。
大学時代はお酒ばかり飲んでいたような氣がします。CDを激しく買い始めたのもこの頃です。ブラックミュージックに傾倒していったのです。いわゆる名盤に触れたときは、やはり格別な気持ちがしました。Sly & The Family Stone の“暴動”やMarvin Gaye の“What's Going On”を初めて聴いたときの感動は、言葉では表すことができないですね。
さて、肝心の学業はというと、多くの大学生がそうであるように(?)テストの前に集中して勉強という学生でした。友人にノートを借りたり、コピーを山ほどしたり・・・でも、再試はほとんど無かったですね。
しかし、病棟実習が始まると、さすがに緊張感を持って、取り組みました。担当になった患者さまから「先生、学生なんですよね?そんな感じがしないですね」と言われたときは、本当にうれしかったです。

昭和44年12月14日、北大附属病院で生まれました。体重は2300g、低出生体重児でした(いわゆる未熟児ってやつです)。へその緒を首に巻きつけて生まれてきたらしく、最初は息をしていなかったそうです。おいおい・・・
ですが、特に大きな病気をすることもなく、すくすくと大きくなっていきました。小さな頃から愛想が良く、いつもニコニコしていたそうです。また、接客が好きなのか、誰構わず玄関先に来た人を、家にあげていたとか・・・。突然、新聞の勧誘さんが家にあがってくるんですから、母親はびっくりです。いまだに、いとこのおばさんには「どうじょ、どうじょ」と真似されます。

父の診療室には小さい頃から出入りしていたらしいです。中でも傑作なエピソードは「おんぶ紐だっこ事件」でしょう。いつものように診療をしている中、ある患者さんをお呼びしに待合室へ行った時です。先ほどまでお待ちいただいていたのに、いらっしゃらない。会社の社長さんですから、「急用でもできたのかしら」と、外を見ると・・・そう、僕をおんぶ紐で結わいて、だっこしている社長さん。僕がおんぶ紐を手に待合室にフラフラやって来て、「だっこしてくれ」と。なんか、いい時代だったんですね。

幼稚園は近所の小さなところでした。卒園時のしおりには「大きくなったら」の欄には、歯医者さんと書いてありました。理由は、おとうさんの手伝いをしたいから、と。誰の入れ知恵かわかりませんが、泣かせます(その30年後、手伝っているかどうかはわかりませんが、一緒に仕事をすることになります)。

出生〜幼稚園

小学校〜中学校〜高校

大学時代

大学卒業〜大学病院勤務時代(いわゆる研修時代ってやつ)

オリエント歯科へ〜そして、これからのこと・・・

大学の医局を退局した後は、父のオリエント歯科に勤務しました。平成15年4月のことでした。親子で一緒に診療すると上手くいかないというようなことを、よく聞きます。意見がぶつかることがないとは言いませんが、まずまず仲良く診療しているのではないでしょうか(父が色々と我慢しているのだと思います)。
なぜ、父の病院に勤めることにしたのか?
母が亡くなったときに、心に決めました。なぜなのか、上手く言葉に表現できません。でも確かに、そう思いました。

同年7月、診療室を1階に移し、リニューアルしました。僕の考えていた当初のコンセプトは「カフェ」でした。しかし、デザイナーの方と色々と相談しているうちに、居心地の良い空間を目指していたら、いつのまにか「自宅」のような感じになっていました(笑)。診療室内には父の描いた絵を飾り、御来院されている方々には非常に好評です(当初、この絵の配置で父と揉めましたが、父の意見が正しかったようです)。

平成17年4月には、二代目院長となりました。ネクストレベルの新しいオリエント歯科を創造すべく日夜頑張っています。
説明をしっかりおこない、皆様にとって納得のいく治療を行なっていきたい。「creating smile(笑顔を創造すること)」が合言葉です。もちろん、予防医療をベースとした安心の歯科治療です。またホワイトニングなどの審美歯科、床矯正を中心とした矯正治療、インプラントなどの治療にも力を入れていきたいと考えています(そのため、講習会等には積極的に参加しています。週末に出席することが多く、家族には少し寂しい思いをさせており申し訳なく思っています。ゴメンネ)。
理想の歯科医療をめざすには、スタッフ、チームが非常に大切です。院長になってから、チーム医療の大変さと楽しさと喜びを感じています。
そして、皆様と私たちチームがお口の中から始まる全身の健康について共に考え、共に歩んでいきたいと思います。






今、語られる
安井丈富の半生

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